存在感のあるレーシック
存在感のあるレーシック
レーシック手術とは目の表面の角膜にエキシマレーザーを照射して、視力回復などを図る手術のことである。
国としての法的責任はない」として、薬害であることを認めない国の体質訴訟HIVと、姿勢が見えてきた。
私たちがどのような政府をもっているのかを思うと憤りをとおりこして悲しい。
しかし国民は自分の身の丈にあった政府しか持つことができないのだ。
イギリスやフランスでは、国の責任を認めて血亥病患者の救済に乗り出している。
九三年一月にはアメリカのHIV訴訟で、製薬メーカーガンの責任を問われて敗訴した。
傍聴席の木の椅子に座っていると、今まで日本の医療ジャーナリズムは何をしてきたのだろう、と思う。
目先の新しいトピックスに追われて、こんなに大事な問題を置き忘れてきたのだ。
原告の病状を考えると、早期の結審であってほしいのだが、提訴からもう四年になる。
裁判の後の語り合い裁判をおこすというのは、時間とエネルギーとお金のかかる大変な作業には違いないが、必ずしも“持ち出し”ばかりではない。
二ヵ月に一回、公判の日に開かれる報告集会とそのあとのおしゃべりは、様々な“副産物”を産む。
感染者同上は健康を確認しあい、情報交換をして励ましあうことができる。
各地でひっそり暮らしている感染者にとっては、自分の病気や人間関係の悩みを話せる人がいる場は貴重である。
愛する人を喪った遺族は、亡くなった人と同じ病気に苦しい仲間たちと思い出を語りあって、しみじみとした喪の時間を過ごす。
そして支援のボランティアにとっては、またとない学習の場たった。
原告や弁護土たちは生き字引のような人たちだし、エイズや血友病を理解するには最適の環境である。
A.Nさんは足が不自由なので、大阪の裁判所まで通うのは難儀である。
しかしその大変さが、地元愛媛と関西にたくさんのボランティアの輪を広げることになった。
一九九〇年四月、「HIV訴訟支援の会」はA.Nさんの友人知人、妹のMさん、が所属する全電通の組合員、ジャーナリスいたちによって作られた。
当初の会員は五〇人ほどだった。
公判の日には「支援の会」のメンバーの何人かが、A.Nさんと大阪へ行き、公判を傍聴する。
体調によっては、車椅子を積み込んだマイクロバスで往復する。
関西の方には「大阪HIV訴訟を支える会」が生まれて活動をしていた。
スモンの被害者、ハンセン病や障害者運動、被差別部落の問題に取り組んできた人たちも加わっていた。
そのなかから、A.Nさんの大阪滞在中と帰路をケアする人たちが出てきた。
いつもA.Nさんの傍らで静かに話を聞いていたM.Tさんは、当時、身体障害者施設の職員で、大阪での“A.Nさん係”たった。
A.Nさんは足が曲からないため靴下をはくことができないガン以外のことはすべて自分でやってしまう人なので、どのような介護をしたらいいのか悩んでいた。
報告集会のあとは、A.Nさんが常宿にしていたホテルの部屋にみんなが集まる。
多い時には一〇人くらいがベッドや床の上にゴロゴロしてA.Nさんの話を聞いた。
様々な人が出入りした。
感染を告知されたばかりの夫婦が、これから職場でどのように仕事を続けていったらよいかの相談をもちかけると思えば、A.Nさんのファンだという看護婦の“卵”が両親と一緒に激励に来る。
感染者が何人か集まると、発症予防にはどの治療法が効果的かの議論になる。
弁護士やジャーナリストが顔を出すと、裁判の展開を予測し、作戦を練った。
若い血友病患者の恋愛やセックスの問題は、A.Nさんの独壇場だった。
マスターベーションの効用を説き、相手に感染させない心得を語り、「若いうちに恋をした方がいい」とハッパをかけた。
一九九〇年七月の公判の後、いつものように皆が集まった時、A.Nさんは万感の思いをこめた表情で、一人のすらりとした若い女性を紹介してくれた。
A.Nさんの本『あたりまえに生きたい』では、「Hさん」という仮名になっているので、ここでもそう呼ぶことにしよう。
私はハッとして、何と言ってよいかわからず、やはり万感の思いをこめて「会いたかったです」と言うしかなかった。
HさんはA.Nさんが出演した番組をみて、N放送局に問い合わせをしてきた人だった。
「ぜひA.Nさんに相談したいことがある」と言う。
A.Nさんの住所や電話番号は誰にも教えないことにしていたが、血友病患者の恋人との結婚を悩んでいる女性である。
本人の了解を得て連絡先を伝えた。
A.NさんとHさんは、何度も手紙や電話のやりとりをしたようだった。
HIV訴訟がすべり出して間もないある日、A.Nさんからうざうざとした電話がかかってきた。
「会いたいなあ。
彼らにも俺の破れかぶれの生き方が移ったらしい。
わたしはいわば仲人だね」ビッグニュースだった。
二人のロマンスは私たちにいつも明るい希望を与えてくれていた。
Hさんがスカッとしていて、仕事もバリバリこなす現代的な女性だというところも素敵だった。
二人は一〇年以上も前からのつきあいたったが、彼は独身をとおすつもりでいたようだった。
しかし、Hさんの結婚への意思はかたかった。
A.Nさんのアドバイスや励ましもあって、意を強くしたらしい。
二人は結婚した。
地元の国立大学付属病院の主治医は、感染の告知をしない方針の人で、彼には「日本の製剤を使っていたので陰性だ」と言い続けていた。
当然、エイズの発症予防治療も受けていない。
やがて重い肺炎(カリュ肺炎)にかかった。
発熱が二週間も続いたが、主治医はぎりぎりまで入院を許可してくれなかった。
感染の告知があったのは、発病して1ヵ月後、死の直前である。
HさんはA.Nさんに、「もうダメみたいです。
どうすればよいのでしょう」と電話をしている。
A.Nさんは大きなショックを受けながら、病状を判断した。
A.Nさんは電話を切った後、二、三日は立ち直れなかったという。
「神さんも仏さんもむごいことをする。
ますます無神論的絶望感におそわれた」と言って落ちこんでいた。
私は慰める言葉もなかった。
Hさんの夫は、まもなく亡くなった。
死の前日、妻に「もう一度機会があったら、幸せになってほしい」と言った。
また死の数日前に、ベッドの中から「国を提訴してくれ!」と叫んだ。
HIV訴訟の原告になることは、彼の遺言だった。
Hさんは遺族として、原告団に加わる決心をした。
八ヵ月の新婚生活だった。
私か初めてHさんに会った日のA.Nさんは、いつになく優しかった。
Hさんが無防備に本名を名乗ったり、自分の体験を語ることのないよう、言い含めた。
「まだ若いし、人生はこれからなんだから、あまり縛られんようにね。
あなたが幸せになることを一番望んでいるのは、ご主人なんだから」。
これが言いつのって「早くに忘れなさい」とも聞こえたので、Hさんも「私も、言わせてもらえば……」と反論し、いつのまにやら感染者が死んだ後の“遺族の生き方”をめぐる大論議になった。
私たち女性陣は、「十分に時間をかけて悲しまなければ、新しい人生など考えられないはずだ」と言い返した。
A.Nさんたちは、家族にたいへんな苦労をかけているという思いから「死後はなるべく早くに自由になって、幸せをつかんでほしい」と考えている節がある。
Hさんは「短い結婚生活だったけれど、十分に幸せだった。
何も後悔していない」と言った。
明るい目の輝きから、それは誰にもよくわかるこいたった。
彼女のような女性がいることは、若い血友病患者に希望と励ましを与えるだけでなく、どの人にとっても大きな感動だった。
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